人間のいない町

福島原発事故から半年が経ちました。
原発20キロ圏内は立ち入り禁止区域となり、人の住む気配がありません。
完全に無人となった町で、人に飼われていた動物たちは今でも懸命に生き延びています。

『もしも人間がもっと自分たちの住む社会に自然を残していたら』
20キロ圏内にも野生の動物たちが十分に住める森が残されていたなら、今の現状とはまた違った結果になっていたのかもしれません。

なぜなら、木は実りをつけ、深く張った根は大地を支え、支えられた大地は水を蓄えることができます。
地下に蓄えられた水は、湧き水となってあふれ出し、また、そこから川も生まれます。
一本ではあまり意味のない木も、数百、数千と集まった森林になればそこは野生の動物たちの住処になります。
多くの植物が存在する森では、微生物、虫、小動物、大きい動物等が住み、生態系が出来上がります。
森では、虫が植物を食べ、小動物が木の実や虫を食べ、体の大きい動物が植物や小動物を食べます。虫や動物たちの排泄物を微生物が分解し、それが植物の栄養となります。
森の中では命の循環が成り立っています。
過不足ない循環された社会が森にはあります。

植物も動物も、生きていくには循環された社会にいる必要があります。

けれど、人間が作り上げた理想的な社会はどうでしょうか。
寒い冬でも、私たちはお湯を使うことができます。
寒さに凍えないように、温まることもできます。
空を飛んだり、海や陸をものすごい速さで移動することもできます。
多くの人は、食べ物は土から収穫しません。腐りにくいよう、適度に温度管理した場所で野菜や魚やすでに解体済みの肉塊を買います。
水も、川の水はそのまま飲みません。
遠くの山奥から運ばれた湧き水などを容器につめ、それを飲みます。
太陽が沈んでも暗闇の世界ではなくなり、人間の活動時間は増えました。
信じられないような遠くにいる人と、一瞬で会話もできます。
世界中の様子も観察することができます。

どれも、人が今まで今の生活よりも少しでも豊かにしようと、考え、協力し、生み出してきました。

でも、私たちは自分たちの今の生活を向上させようとするあまりに、豊かさを履き違えて成長させてしまったのかもしれません。

それは、無人となった人間の住処をみたら一目瞭然です。

今、福島原発20キロ圏内は人間は一人も住んでいません。
ここに住んでいるのは、人間と一緒に暮らしてきた犬、猫、馬、食用に飼われていた牛、鶏、豚などです。

彼らは、人間の暮らしていた跡地で、野生的に、元気よく生きながらえているでしょうか。

答えは、違います。
そこにいる大半の動物たちは飢えて死にました。
飢えて、です。

私たちが作り出した社会の正体は、動物たちが飢えで死ぬ土地だったということです。

食べ物が循環して実る森はなく、森林によってろ過されたきれいな水もない、生きるために最低限必要な食べ物と水がない、まさに砂漠のような不毛の大地です。
砂漠にすら適応し、生息する植物や動物もいるので、人間社会のコンクリート砂漠はそれ以下かもしれません。

水を得るために蛇口をひねれるのは人間だけ、犬にはできません。それに、水道管が破壊されてしまってはどうすることもできません。
自然に実りをつける木や植物がない限り、食べ物はありません。人間は畑から食物を得ることができますが、猫は畑を耕すことはできません。

人に家畜として飼われていた動物たちは、そもそも生きる権利がないかのように柵の中に閉じ込められ、仲間が倒れていくのを見ながらいつか自分も死に襲われます。
死ぬのがわかっているのか、不安で寂しいのか、養豚場では豚たちが身を寄せ合って亡くなっていたそうです。

原発事故が起きたから、人の住めない不毛の大地になった。
これは少し間違っているのかもしれません。
人間が住んでいる場所自体が、原発事故がなくてもすでに動物たちには住めない不毛の大地だったのですから。

木野 実