エゾシカとオオカミの再導入

「オオカミの再導入」をご存知ですか。
1995年、イエローストーン国立公園とアイダホ州で初めて実施され、成果があったことからアリゾナ州とニューメキシコ州で実施中だといいます。
中央ヨーロッパと西ヨーロッパでも検討されているこのプログラムを日本でも提唱する人達がいるそうです。はたして「オオカミの再導入」とは…。

今、北海道ではエゾシカの大量発生により様々な問題が起きていることをご存知でしょうか。
大型草食動物の大量発生というと、農業被害を思い浮かべる方が多いと思いますが、現在北海道で起きている被害は対人間だけのことではないのです。

2月15日付の毎日新聞に次のような記事が掲載されました。
ウグイス:営巣場シカ食害で消える 北海道・洞爺湖で初確認
一部を引用させてもらいます。

北海道内で普通に見られるウグイスが、洞爺湖に浮かぶ中島では確認できないことが道立総合研究機構・環境科学研究センターの玉田克巳主査と酪農学園大学生 の研究グループの調査で分かった。営巣場所のササヤブがエゾシカに食い尽くされたのが理由とみられる。ウグイスの巣に托卵(たくらん)するツツドリも、道 内では珍しい鳥ではないのにいない。鳥へのエゾシカの影響が明らかになったのは初めてだ。

要するにエゾシカの被害が野鳥であるウグイスにまで及んでいるという事なのです。
記事ではササヤブを営巣とするその他の野鳥の姿も減ったと伝えています。
実際、エゾシカの被害は農林業被害や交通事故ももちろんですが、自然植生の破壊も大きな問題になっているのです。
植生の破壊は即生態系の破壊にもつながる大きな問題です。

エゾシカが引き起こす問題に対してはいままでに、狩猟、有害駆除、侵入防止柵、忌避剤、爆音機といったさまざまな手法が試みられてきました。

とくに狩猟・駆除に関しては批判が多いなか個体数を減らすのに効果が高いため定期的に行われてきました。
ところが最近では狩猟にかかせないハンター達が世論の厳しさや高齢化のため減少しているのです。このハンター不足を補うため自衛隊まで借り出されている始末です。

侵入防止柵はエゾシカを傷つけることなく被害を抑えることが出来る良策ですが、北海道に設置された対エゾシカ用の侵入防止柵の総延長は、2004年度ですでに3000kmを突破しているそうです。
また、侵入防止柵はエゾシカを減らすことは出来ませんので、ただ他の場所に誘導する結果にもなっています。

そこで最近になって提唱されているのがオオカミの再導入です。
オオカミの再導入とは、オオカミが絶滅した地域に、人がオオカミの群れを再び作り上げることです。オオカミにとって適した自然環境が広い範囲で残っており、同時に獲物となる生物が十分にいる地域である場合に限って検討されています。

もともとエゾシカの大量繁殖の背景には、天敵であったエゾオオカミの絶滅も原因として大きいと考えられています。
エゾオオカミの絶滅の原因は、ご想像の通り人間です。
北海道に開拓に来た人間(本土の人間、和人)が、エゾシカを乱獲したためウマを襲うようになったエゾオオカミを駆除したのです。
さらに、そこに大雪によるエゾシカの大量死が加わり絶滅を早めたといわれています。
そして、1896年に函館の毛皮商によってエゾオオカミの毛皮数枚が扱われたという記録を最後に確認例がなくなりました。

ところでエゾオオカミはタイリクオオカミの亜種と言われており、ミトコンドリアDNAはカナダ・ユーコン川流域に生息するオオカミのものとほぼ完全に一致するとも言われています。
この点が同じく絶滅したニホンオオカミと異なります。ニホンオオカミは大陸のハイイロオオカミの別種または別亜種と考えられているので、ニホンオオカミの復活を目的としての再導入は意味が無いように思います。

エゾオオカミに関しては再導入の目的は、エゾオオカミの復活というよりは生態系の復活です。
直接的にはエゾシカの天敵であるオオカミを放つことによって、大量に増えたエゾシカの個体数をコントロールすることが目的です。

前述したイエローストーン国立公園の再導入前の状況は現在の北海道に似ています。
どのようにして成果をあげたのか、経緯を簡単に説明しておきましょう。

1926 年にイエローストーン国立公園で最後の野生のオオカミが殺された後、オオカミの獲物となっていたワピチ(アメリカアカシカ Cervus canadensis)や他の動物が増加し、その結果、植生に被害が出ました。イエローストーン国立公園にはコヨーテなど肉食獣も生息していますが、オオ カミが果たしていた捕食者としての役割を補うにはいたらなかったのです。
オオカミの再導入に向けて合衆国政府は、妥協案の作成・条件整備・実行について責任を負い、妥協点を探し出すのに約20年間をかけて努力を続けました。
1995 年1月連邦政府は、カナダアルバータ州から野生のオオカミの輸送を始めました。また1996年1月にも追加のオオカミが放されました。再導入されたオオカ ミは順調に増え、2009年末にはアイダホ州、ワイオミング州、モンタナ州の3州の個体数は約1700頭になり、そのうちイエローストーン国立公園には約 100頭が生息しているそうです。
イエローストーン国立公園では、再導入によって生物多様性が増えたことが報告されています。それはワピチの個体 数の減少によって植生が増えたためであると考えられ、アカギツネや公園内では絶滅状態であったビーバーの個体数の増加も観察されています。この動物層の変 化は、オオカミがコヨーテの個体数を制御しているためであろうと考えられています。
家畜被害などの問題もいくつか報告されていますが、家畜被害のうちオオカミによることが確認されたものについては、政府および「オオカミ補償基金」によって補償されています。

イエローストーン国立公園の例をそのまま当てはめて考えるわけにはいきませんが、オオカミの再導入によって生態系(食物連鎖)のバランスが回復することは証明されたと言って良いでしょう。

ところで、天敵の導入と聞くと「マングース導入の失敗」を思い起こす人がたくさんいるでしょう。
外来種の安易な導入の結果、生態系が脅かされている状況は日本やオーストラリアなどに失敗例をみることができます。しかし、オオカミとマングースは生態系におけるキーストーン種かどうかという点で決定的に違っているのです。

キーストーン種とは、または中枢種とも呼ばれ、生態系において比較的少ない生物量でありながらも、生態系へ大きな影響を与える生物種を指す生態学用語です。
キーストーン種は捕食行動を通して生態系に影響を与えることが多く、このようなキーストーン種をキーストーン捕食者と呼びますが、オオカミのように食物連鎖における上位の捕食者はそのよい例です。

生態系の多様性の維持において、最上位捕食者が果たしている役割が致命的に重要であるといわれています(HSS仮説)。その説に従えば沖縄におけるマングースは最上位捕食者ではありませんが、オオカミはそうなのです。

草食動物も、捕食される植物も同時に安定的に維持するためには上からの生態系コントロール、つまり肉食捕食者の存在が重要です。
オオカミの再導入は短期的には、増えすぎたエゾシカの駆除が目的ですが、長期的には欠けているキーストーン種を再導入し、日本の森林生態系を安定させようというのが本来の意図なのです。
オオカミの再導入については、日本オオカミ協会のように地域を問わず提言しているものもあれば、知床のように地域として検討しているものもあります。

しかし、オオカミと聞けば猛獣のイメージの強い現在の日本での導入は容易とはいえません。
オオカミが人間を傷つける可能性はむろん、無くはありません。
とくにオオカミが積極的に人間を攻撃する、人間を捕食しようとすることは考えにくいのですが、状況によってはまったく無いとは言えません。
しかし、北海道にはより攻撃性が強いヒグマがおり、なおかつヒグマに人間が捕食された例が数多くあるにもかかわらず、ヒグマをすべて駆除しようという動きにはなっていないのはなぜでしょう。
一定地域で共存している例がそこにあります。
オオカミは非常に用心深い性格なので、ヒグマのように不用意に人間が近づくことで起こる事故もはるかに少ないでしょう。
共存の可能性はおおいにあると考えられます。

畜産の被害を考える方も多いでしょう。
過去にエゾオオカミが駆除されたのもそれが原因ですから当然です。
しかし、畜産はそれ自体の環境に対する悪影響や食料資源の問題を考えれば、むしろ畜産を減らすことを検討すべきなのであって、オオカミの被害などは考慮するに値しません。

北海道におけるエゾシカの状況は一刻も早く解決すべき段階になっていますが、他の地域でも同様の状況は数多くあります。
千葉県におけるイノシシやキョンの生態系への影響と農林作物被害などがそのいい例です。
人間による狩猟、駆除などはキーストーン種にあたる最上位捕食者の代わりを人間がしているといえます。
しかし、生物多様性の本来を考えればゆがんだ姿といえましょう。
地球サミット以来当たり前になった感のある生物多様性という言葉ですが、あらためて意味を考えみませんか。

オオカミの再導入、あなたはどうお考えですか?

(辻 康則)